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祖母を見送った一週間。

Posted by Yujiro Sakaki
on 2017年7月10日

月に1~2回、恵比寿のガーデンプレイスへ母と祖父母を連れていく。車の免許を取得してから、いつしかそれが僕の習慣でもあった。

祖母が車椅子を使うようになってからは、銀行、郵便局、三越デパートと、最適な移動経路を見抜くのがまあ難しかった。

母と「こっち行っちゃダメだ」「ああこっちでいいんだ」「このエレベーターでいいんだよ」と、考えながら移動をする。

今では数え切れないほど出掛けたので、恵比寿ガーデンプレイス内の車椅子経路は、すべて把握できたと思う。

11時開店前に車を駐車場に停め、郵便局や銀行に用がないときは直接3階のサンマルクカフェへと向かう。

そこで母は、祖母に決まってデニブランを食べさせた。祖父は決まってゆずちゃか、砂糖を5本入れて飲ませるべた甘のコーヒーだ。僕や母からしてみれば高カロリーでしかないが、高齢の祖父母にとって、甘いものが長生きするための必要なエネルギーとなる。

30分ほど過ごした後、トイレに寄って昼食を地下の三越で買って帰る。これがいつものパターンだった。

その時間、2人はとても楽しんでくれた。

どちらも恵比寿三越に出かけた記憶はすぐに忘れてしまうが、お買い物に行ける、ということが毎回新鮮で、車に乗り込むときも楽しそうで、だからいつもいい服を着て、恵比寿へ行くのが嬉しかったんだと思う。

もうここに4人で行くことはない。2017年7月8日土曜日、午前8時半頃、祖母は母の実家でみんなに囲まれながら他界した。

祖母はいつだって僕たちのことを見ていてくれた。だからそれを忘れないためにも、ここに1週間の記録を書き残そう。


看護師のいとこからLINE通知が届いたのは、7月1日の午前10時だった。そのあとすぐ、別の場所にいた母から電話が入った。

「ばあちゃんがちょっとあぶないらしい」

弥生会計を立ち上げて、上半期の領収書整理に取りかかっていたのを中断し、事務所を出た。朝から降っていた小ぶりの雨は、すでに止んでいた。

母の実家に向かう途中、もう12年も経ったのが信じられないくらいだが、父方の祖母が亡くなった冬の日を思い出した。

「裕次郎、いまパパさんから連絡があって、おばあさん亡くなったって」

朝5時35分だった。布団の中で、その報告を受ける。そのとき初めて、僕の人生において「身内が亡くなる」ということを経験した。

ただ、父方の祖母が住んでいた場所は京都、ガンで闘っている姿を見たのは、東京からお見舞いに行った数回程度しかなかった。

だから、ただ居なくなってしまった、という感覚のほうが正しいのかもしれない。いまでも京都に行くと、2階で洗濯物を干しているような気がするのだ。

書いている途中で、ふと気づく。父方の祖母に対しては誰もが「おばあさん」と呼び、東京の祖母に対しては誰もが「ばあちゃん」と呼んでいた。この呼び方の違い、関西と関東との違いはあれど、改めて考えるとおもしろい。

共通して2人の祖母は、どちらも強烈に厳しかった。


母の実家に到着する。6月最後の木曜日、すこし調子が悪くなった、とは聞いていたけれども、今回のすこしは、致命的なすこしだったということが、自室で横たわっている祖母を見て気づくことになる。

「(入院させてもやること同じだから、ここで看取ろうと思って)」

酸素チューブをつけて、全力疾走をしたあとのように全身を動かして呼吸をする。片方の肺に水がたまってしまい、うまく呼吸ができないのだ。

けれども、まだ意識はしっかりしていた。

「ほら、きてくれたよ。誰?」

看護師のいとこが耳元で問いかける。いつもは間違えるのだけど、かすれた声でしっかり「ゆうちゃん」と答えてくれた。一発正解、とてもうれしかった。

いとこが自前の聴診器を持ちながら状況を説明してくれるが、祖母の苦しそうな姿を見ていると、まったく耳に入ってこない。

その後、すぐにかかりつけ医がきてくれた。いとこと一緒に診察をし、また同じように状況を説明してくれるが、大動脈弁狭窄症という、ドラマで聞き慣れたキーワードしかわからなかった。

ただ、いまいる親族に伝えた最後の言葉は、とても心に響いた。

「終期っていうのは、誰も決められないんです。いまはこういう状態ですが、実は1年後、2年後かもしれない。老人ホームでもよくあることで、もう駄目と思っていてみんなが集まったら、また取り直したという例はいくつもあります。ただ、いまはご家族の方にあわせてあげてください。そして大事なのは、おばあさんに話しかけてあげてください」

爆発的な何かがこみ上げてきた。泣くのを我慢した。まだ必死に生きている。泣いてはダメだ。

この日は、午後5時から会議があった。平常心でできるだろうか? と思ったけれども、さっさと片付けてしまいたい、という気持ちが強かった。

そして、まだ大丈夫という根拠のない確信もあった。

体が熱いということは、体が反応している証。他の家族たちも、このあと続々とくることになったから、待たずして逝くことはないに決っている。

「ちょっと出かけてくるね。またくるね」

と言って、しわくちゃな力なき手を握った。子供のころ、これが耳かきをよくしてくれた分厚かった手。その手は細く、そして猛烈に熱かった。


その日は無事に持ち越した。

午後11時だった。テレビもつけず、ソファーで目を閉じていた母に、僕はバロークスの缶ワインを飲もうといって、冷蔵庫から一缶差し出した。

シャンパングラスを2つ出して、グラスにそれぞれ注ぐ。すこしだけ飲むには、ほんとちょうどいいサイズだ。

僕が幼稚園生の頃、祖母は一度喘息で死にそうになった。もうわずかな記憶しかないが、新聞の折り込み広告で、裏が白紙のものを探しては、祖母の絵を描いていたのを覚えている。

母は酒を飲むと、あのときのことをよく話す。今回も当時のことを回想した。

僕自身、祖母が本当にもう駄目かと思ったのは、おととし12月のこと。

大腸からの出血が止まらなくなり、祖母は緊急入院をした。何リットルの血液を使ったかかわからないくらい輸血を繰り返す。

病気の知識がなくても現状を理解できた。

輸血は何リットルできるのか、Google検索で何十回と調べただろうか? ベッドサイドモニタが用意されたときは、いよいよなのかと言葉を失い、ベッドに横たわるその姿をとても見てはいられなかった。

そしてミラクルは起きる。幸いにも出血が止まり、また恵比寿ガーデンプレイスに連れて行くことができた。1月に退院して、連れていくことができたのは6月入ってからだったが、日常の習慣がまた戻ったこと、最高に嬉しかった。

「おととしの冬で駄目って思ったんだから、この1年半はもうけもんだったんだ。パパさんもちゃんとおばあさんを看取ったんだから、私もしっかり看取らないと」

母はいった。僕は何も言葉を返せなかった。


翌日、酸素チューブから酸素マスクへと切り替わる。尿を出して肺の水を出す薬が効いたのか、様態は落ち着き、またミラクルが起きるのでは? とも思った。

日曜日、月曜日と、声を出す力は失われていたものの、意識はしっかりしていた。肺の水も抜けたようで、呼吸も楽そうだった。

そして火曜日の朝、顔を出すと、両手で僕の手をしっかりと握ってくれた。4日ほど何も食べていない状態なのに、かなりの握力があったのだ。これには驚いた。

これで何か食べられるようになったら、大丈夫だろうとも思った。また大好きな恵比寿ガーデンプレイスへ、買い物に連れてってあげられるかもしれない。

だが、無情にも水曜日の夜、容態はさらに悪化していく。

肺から水は抜けたようなのだが、肺炎を引き起こしたのだ。祖母の体が徐々に機能しなくなっていく。酸素マスクに加えて、点滴針が腕に刺さっていた。

いとこは、看護師としての経験と知識をすべて出しきり、24時間体制で在宅医療にあたってくれているのに、木曜日の朝はまったく目を開いてくれなかった。

あれだけ力を込めて握手をしてくれたのに、握手をしようとしても、眠っているようにまったく力が入っていない。

「仕事行ってくるね」

この問いかけにも動じず、確実に終わりが近づいてきている、ということを思わざるを得なかった。

僕は仕事に行った。場所は日本武道館のある九段下だ。この日はとある企業から業務委託契約の依頼があった。ウェイトとしては大きい。ドトールコーヒーでオレンジジュースを頼んだのは、後にも先にもその日が初めてだった。

やたら氷が多くて、すぐに薄まるドトールのオレンジジュース。

ただ、仕事のスイッチを押し戻してくれた。このオレンジジュースで感情を抑えられなかったら、契約の途中で泣きはじめたかもしれない。


九段下での仕事が無事に終わったのは、その日の午後5時半。仕事を途中で切り上げて、先に祖母のところに行っていた兄からLINE通知がくる。

「呼吸がとまる。やばいかも」

九段下から母の実家まで、すくなくても40分。タクシーを使うかとも考えた。アプリで確認しようとするが、思うようにiphoneを操作できない。時間の無駄だと諦めて、革靴のまま駅まで全力で走った。幸いにも、電車はタイミングよくホームに入ると到着してくれた。

到着すると、朝と変わらず目を閉じて眠っていた。そして兄のLINE通知のとおり、不定期に呼吸が止まるのだ。

「ばあちゃん、息して―。ほら」

いとこは手をお椀型にして、肺をポンポン叩いていた。長いときで10秒から15秒ぐらい止まってしまうが、きちんと呼吸を再開する。酸素マスクのおかげで呼吸が止まっていても、指に挟んだ体内酸素測定器の数値は90以下に下がることはなかった(最大100、90以上あればOK)。

これは心不全によるものだという。もし、この場に看護師のいとこがいなかったら、ああ死んだ! と焦ったことだろう。確実に呼吸が止まっているのだ。それを何度も繰り返していた。

意識レベルとしてはかなり低下していたはずだが、兄と何度か話しかけると、ときどき身震いするように反応してくれる。呼吸があるときは目も少し開くこともあり、いるよということを伝えることができた。ただ、その反応も小さい。

2時間ほど側にいたあと、僕たち兄弟が「明日また来るね」と告げ、僕が先に祖母から離れる。すると兄が大きな声で、

「裕次郎、裕次郎!」と、呼んだ。「手が動いた!」

「ばあちゃん、もういっかい。もういっかい!」と僕はいう。

だらんと床に横たわっていた右の腕、肘から手が30度ほど上にあがって、すぐ落ちた。今日一番の大きな動作だ。聴力はしっかりしている。祖母の精一杯の挨拶を、全員が確認した。

その反応に、孫達一同は声をどっと上げて笑った。この一週間で、最高の思い出になったね。


金曜日の朝、同じように母の実家を訪問する。意識レベルはさらに低下していた。

そして呼吸が止まる時間も、40秒から60秒と長くなっていた。祖父が一生懸命足をさすっている。

この日は来客のため、すぐに出ないといけない時間ではあったが、一回でも「ばあちゃん」の問いかけに反応して欲しかった。けれども、反応の確認はできないまま仕事へと向かった。

仕事から戻ってきたのは、午後5時。呼吸をして、止まってのサイクルが平均的に60秒から70秒の間隔となっていた。

しかも呼吸をする時間と止まる時間、止まる時間のほうが割合が若干多くなっている。午後5時半に戻ろうとしたが、祖母の前から離れられなかった。

午後7時、血圧が安定しない。脈が取れない。血圧を上げるために点滴をこれ以上早めたら、漏れるかもしれない。

四肢も冷たくなり、正確に体内酸素数値も測れなくなってきたことに、看護師のいとこは焦っていた。祖母は体の体制が苦しいのか、呼吸をしているとき、足をぴくぴく動かしていて、眉間にしわを寄せている。

腰を動かしてあげたいけれども、動かすと血圧が下がる恐れがある。だから痛くても動かせないとのこと。

午後8時に兄がきて、午後9時に昼間看病をしていた母が戻ってきた。そして午後10時、かかりつけ医がきてくれた。

これは僕の想像でしかないが、かかりつけ医がきてくれたことに、ひどく安心した表情に見えた。

「看護師の血管の見方と医師の血管の見方は違うから、僕が入れ直すよ」

血管が見えないところに、点滴針を指し直す。それが成功し、すこし表情もよくなったように見えた……違うな。ここにいた全員がお医者さんに見てもらった、という安心感でそう見えたのかもしれない。

その日の夜は、それで帰った。7月7日、七夕の夜。例年は雨の日が多いのに、珍しくもお月さまが綺麗だった。


そして土曜日の朝、また出かけようとしたとき、いとこから母へ電話が入った。そして母はいった。

「駄目だったって」

あとから詳しく聞くと、突然体を起こして、大きなくしゃみを数回したらしい。そのあと血の気がさっと引いていき、そのまま息を引き取ったとのことだ。

僕は兄と一緒に、一足先に向かう。母は一番冷静な父と一緒に、その後の手配をしていた。

「行く前に、これだけやろう」

父の一声、とても頼りがいがあった。

祖母の部屋に到着する。呼吸の止まったときの表情と、まったく一緒だった。

すこしだけ口は開いたまま、父方の祖母と同じ表情をしていた。かかりつけ医がきて最終確認をするまで、点滴針はそのまま、酸素マスクもゴムだけ頭から外し、口の上にままの現状維持とのこと。

在宅医療は、手順を間違えると厄介なことになる。

ただ、硬直が始まる前に素顔をきちんと保つため、いとこは目を真っ赤にしながら、折りたたんだタオルをあごの下にひいて、髪の毛を整えていた。

「ばあちゃん、がんばったね、がんばったね」

僕も同じように祖母の顔に手を置いて、頭をなでた。

爪も白い。顔も白い。眠っているように見えた。魂というものが存在しているのならば、まだ祖母には魂が残っていたと思う。理由は、体はまだ暖かく、首元は汗をかいていたから。

「がんばったね、みんな集まれてよかったね。ありがとね」

涙が止まらない。祖父も続いて話しかけている。

「すまねえな、ばあや。なんにもできなくて」

横にいた兄が、祖父に対して何かを言いかけたが、うまく言葉が出せなかった。


かかりつけ医がきた。母の実家に今いる全員が、祖母の前で集まる。

そして最後の確認が終わった後、看護師のいとこはマスクを外して、点滴針を外し、そして酸素注入器を止めた。何度も頭を下げて先生にお礼をいった。

しばらくの沈黙の後、かかりつけ医は椅子に座る祖父の前で片膝を立てて座り、肩に手を置いてこういった。

「おじいさん、ごめんね。一生懸命がんばったけど、僕の力が及ばなかったんだ」

在宅医療としては、最高の形だったはず。先生があやまる理由がどこにある? 涙がまたこみ上げてきて、今度はまったく止まらなかった。

点滴類、針、器材などをまとめる。病院で処分しなければいけないものと、借りた器材があるので、看護師のいとこの弟と一緒に、かかりつけ医のクリニックへと行った。

「俺たち、嫁を見せてあげられなかったな」

祖母の孫として未婚は、いとこの弟と僕だけだ。もう、それだけが心残りだった。いつだってまだ結婚していない孫たちには、「はやくおよめさん、およめさん」と話していたから。

徒歩5分のクリニックに到着する。そしてかかりつけ医は僕たちに、祖母の死亡診断書を発行してくれた。

医療事務なども長年仕事でやってきたが、こいつほど嫌な診断書はない。

それを受け取り、2人で頭を下げて「ありがとうございました」と言おうとしたのだが、このクリニックで祖母が10年間お世話になったこと、そこの椅子で診察を受けていて、いつも大好きだと言っていたこの先生に診てもらっていたことを思うと、先生の前で泣くことしかできなかった。

祖母が僕たちにしてくれたことは、本当に大きかったのだ。


戻ると、葬儀屋がきていた。

西村京太郎の赤い霊柩車のサスペンスドラマはよく見ているが、つまりはオールインワンで行ってくれる、そういう葬儀屋なのだろう。行動が迅速だった。

細かい段取りについては親たちの出番のため、孫である僕と兄は一旦帰れと言われた。昼も過ぎていたので、ラーメンを食べに行くことにした。腹もまったく減っていないし、食う気も起こらない。けれども、ラーメンを食べることがいま重要にも思えた。

「晴れでよかったな。雨だったら、それだけで憂鬱になる」

兄はいった。週間予報を確認すると、お通夜告別式の日まで、天気は問題なさそうだった。


家まで戻り、兄も小さな娘達がいるので、一度自分の家に帰ることにした。

僕も1時間ほど、自宅の自室で何か気を紛らわせようとしていると、母から電話がかかってきた。

「火葬場の関係で、ばあちゃんを葬儀屋さんの霊安室においてもらうことになった。だから、ちょっと戻ってきて」

8日が今。7月11日がお通夜で、12日に告別式ということ。

猛暑日が続く予報なので、その日数を取るのであれば、ドライアイスも何度交換するかわからない。ゆえに、葬儀屋の霊安室という場所しかないのだろう。

僕は急いで母の実家に戻った。祖母はお腹の上で手を組み、真上を向いてバランスよく寝ていた。

「それでは皆さん、最後にお別れを」

ひとりずつ祖母の横に座って、声をかける。

「ありがとね、ばあちゃん。恵比寿いつも楽しかったよ」

全員の挨拶が終わった後、葬儀屋の持ってきた、白い運び布に祖母を包みこむ作業を手伝った。

葬儀屋の人と、看護師のいとこの弟、そして僕で祖母を布団の上から布へと移動した。もう死後硬直がはじまっていた。両足を僕が持ち上げたのだが、まるで棒のように固くなっていた。足首はもう動かない。

葬儀屋が、祖母を丁寧に優しく布で包み込む。最後に顔が包み込まれた。

僕は口がへの字に曲がって、これまでの祖母と過ごした過去が一気に混み上がってきた。おおつぶの涙を流すゆうちゃんとして有名だった一番下の孫が僕だ。あのとき以上に、おおつぶの涙をぼたぼたと垂らした。

「ばあちゃん、ありがとね、ありがとね。ほんとにありがとね」

葬儀屋の人といとこの弟で、祖母を部屋から外まで運ぶ。

停車し、用意したストレッチャーのような台に乗せる際、すこし高さがあったので、看護師のいとこと僕で祖母の腰を押し上げた。葬儀屋の人は、終始ゆっくりとした動作で台に乗った祖母を車の中に入れた。

そして車が出発する。祖父は叔父に支えられながら、両手を合わせていた。気温34度の猛暑日だった。午後3時過ぎ、祖母は一度旅立っていった。

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