暇と退屈について学習し、克服する
スポーツジムの帰り、渋谷ストリームのショッピングモールを歩いていると、雑貨売り場で1冊の本のタイトルに惹かれ、そのスペースの狭い本棚に立ち寄ってみました。
手に取ったのは「暇と退屈の倫理学」という書籍、開いたページにパスカルの一言があり、なんだかおもしろそうだなと思って購入しました。
仕事はうまくやっているつもりです。けれどもちょっと最近「退屈」を強く感じるようになりました。この書籍、本当に今の自分にぴったりだったのでしょう。ページを読み進めるたび、頭がすっきりする気分になっていきます。
今日でまだ200ページくらい(400ページぐらいある)。まだ途中ではありますが、ここまでの内容の復習も兼ねて、ざっとブログにアウトプットしてみました。自分の頭の中にあったものも、多少織り交ぜて書いています。
以下、湿度の高い夏の夜に書いた休肝日の駄文です。トイレの水に汚物を流すような、自分の脳内清掃のための駄文でもあります。読まれる方は、それを念頭においてください。
いわゆる、退屈の対処法
知らないの? ヤバくない! えー、そんなこと知ってるの! すごーい!
人からバカにされるのが怖くて、人を見下すために情報を集める。もちろん、自覚なんてない。けれども、今は「知らない」が即ち「悪」とされ、何も考えずに生きていると「大丈夫ですか?」と不憫に思われ相手にされなくなる。そんな時代に入ったと感じている。そうした評価は、面と向かって告げられることはまずない。だからこそ、どこか被害妄想に近い感覚にもなる。無視すればいい話なのかもしれないが、いつの間にかクラスの空気が一斉に冷たくなるような、あの静かで陰湿な恐怖を帯びているから厄介なのだ。結果、他人にマウントを取られないよう、まるでディベートを勝ち続けるかのように立ち振る舞い、強者を見極めては、そっと距離をとりながら生きていくのが最適解、というわけだ。少なくとも、私が今見ている世界は、そんなふうに映っている。だけど便利なことに、いまや生成AIが月額3,000円ほどで味方についてくれる。いつだって私の側にいて、しかも頼れる軍師のように知恵を貸してくれるのだ。なんとも心強い。答え合わせがすぐにできる。が、自分以外の人間も使えるということを忘れてはならない。つまりは、AI戦争は始まっているのだ。気を抜くな! 見知らぬ誰かがすぐに論点の綻びを突いてきて、一瞬で奈落に落としてくるぞ。不安なこと、わからないこと、理解が曖昧なことは、すべてChatGPTに確認しておこう。たったひとつでも間違ったことを口にしたら、こう言われるぞ。「大丈夫ですか?」って。場合によっては、冷たい目線の袋叩きに遭うだろう。生成AIというドーピングで強化された脳は実に手ごわい。通常脳では太刀打ちできないだろう。
人はもともと移動しながら生きていたようだ。ごみを捨てる。排泄物を処理するなんてことはできなかったのだと。それが次第に移動するよりもいい方法を見つけたか、できなくなったかで、人は定住することを選んだ。そして武器を作り、火を使い、縄文時代にはもう立派な土器を作る時代までになった。つまり芸術というものも、たどっていけばこのあたりからすでに芽生えていたのだろう。そして定住すれば、食料の貯蔵に差が出てくる。それが目に見えてくると、貧富の差が生まれ、略奪が起きて、犯罪が生まれていった。集落ができて、地域ができて、国ができる。増え続ける人間の統制のため、法律ができ、使用者と労働者は明確に分かれていった。歴史を追うと、実に面白いね。そして今度は労働者が効率的に働けるような時代に入る。フォーディズムってやつの時代の到来だ。人間はロボットではない。効率よく、労働者が動きやすいように大量生産をすることこそ利益の最大値をはじき出すことができた。作っては売れ、作っては売れる時代に突入だ。日本でいえば、昭和時代だろうな。「24時間戦えますか! リゲイン・リゲイン・僕らのリゲイン」あれこそがまさにフォーディズム的な昭和時代の象徴的な歌だったんだろう。真っ黄色なCDを僕は親に頼んで買ってもらった記憶があるよ。もしかしたら初めてかったCDかもしれない。
話の中の時間は進み、労働者を効率化させるための「余暇」にまで、人を動かす側の人間は目をつけるようになる。酒を飲んではいけない。深夜まで遊んではいけない。労働に影響を及ぼすことはしない程度にリフレッシュを! そして、娯楽ビジネスが生まれていった。労働者は労働することしかわからないため、休もうとすれば労働に営業のある遊び方しかしないのだ。賭け事、タバコ、酒、女。労働に影響を及ぼす遊びしか知らないとのこと。だからこそ、海に行こう、見知らぬ土地へ行こう。おいしいものを食べよう。現実逃避ができるリゾートホテルに泊まろう。さあみんな、リフレッシュだ! すべては効率のいい労働をするために、あなたの貯金を、ボーナスをリフレッシュに費やそう! 労働に支障が出ない範囲で、うまくリフレッシュしてもらうためのレジャー観光業が栄えていったとのこと。ここで少し時間をまた飛ばそう。
そして、いま「現在の消費社会」へと突入だ。これを知らなければいけない。あれも知っておかなければいけない。広告屋が教えてくれる商品を手当たり次第に買いそろえ、SNSで権威を見せびらかすために高価なものを手に入れ、身を飾り、リアルが充実していることを証明する写真でタイムラインを埋め尽くす。新しいものが出ればすぐさまモデルチェンジ。「どうだ、自分はすごいだろう?」「私は他の人よりも最先端だ」「物知りで博学だ」「友達も多い」。そんな自己演出を武器に、個人対不特定多数の情報戦争に参戦しているのだ。もはや労働者の管理も、フォーディズムのような時代にはもう戻れない。スマートフォンという魔道具のせいで、誰もが手軽にSNSを使え、それぞれの「個」が強く育っていった。いまや人は、睡眠時間と同じくらいスマホを眺めているに違いない。電車の中を見てごらんよ。誰もが夢中になって画面をスワイプしている呪われた姿が見えるはずだ。移動するという行為すら、もはや人間には退屈なのだろう。軽量化、効率化、最適化。偏った知識を身につけ、インフルエンサーに左右され、なんでもかんでも匿名で権利主張・異議申し立てができるようになった。個性が失われていた時代から一転して、「個性で殴り合う時代」に突入した。人はバズるために、注目されるために、金を稼ぐために、この消費社会で明日を生き抜くために、通信機器を片手に必死になる。個をより強くするために。消費社会で生き抜くには、自分もそうならなければならない。個の弱い人間は、どんどん負けていく。注目されなければいけない。オンリーワンである必要がある。お金を稼ぐためにも、誰よりもマウントを取って仕事を勝ち取らなければならない! これはすべて、誰よりも前に出て、「自分はすごい人間なのだ」と周囲に信じ込ませ、「価値のある存在だ」と思わせなければならないのだ。なぜならそれが、仕事を得るための目的であり手段だから。しょうがない、生きていくためだ。誰よりも個を磨いていくしかない!!! 個がないやつと付き合うな!!! 個のないヤツは、草でも食っておけ!!!
仮に、それでこの時代を生き抜いて、富も名声も手に入れたとして、じゃあ、本当にやりたかったことって、何だったんだろうか? 消費には終わりがない。快楽を得続けるネズミのようにスイッチを狂ったように推し続けるのだ。無駄に投資し、豪華絢爛な店を飲み歩き、記憶にも残らないような浪費を繰り返した先には、ボロボロの姿の自分がいることだろう。そして戦い抜いて登り詰めた山の頂には、誰もいなかった。そんな結末は、目に見えている。消費社会にゴールはない。だからこそ、ときどき息が詰まって、ふとこう思ってしまう ――「ああ、バイトがしたい」ってね。意味がシンプルで、終われば報酬がある。なんてわかりやすいんだ。高度経済成長を終え、仕事を「創る」ことが求められる今、フォーディズム的な単純さに憧れている。客観的に見れば、これはもう末期症状かもしれない。遊び方を知らない労働者が、ギャンブル・タバコ・酒・女に手を出して堕落していくように、今の「大消費時代」から一歩外れて休もうとすると失敗に着地する。パスカルが言っていた「人間はじっとしていられない」という嘲笑が、どこからともなく聞こえてくる。いつの時代も生きづらさはあるだろうが、なんて生きづらい時代なのだ。誇示するものを次から次へと手に入れなければならない。永遠に満たされることのないこの消費社会に、いかにして充足感を手に入れたらいいだろう? 個を磨く以外に、どんな過ごし方があるんだろう? それがわからない。だから退屈なんだろう。たぶん、この退屈感の正体は、そこにある。ああ、本当に退屈だ。なんて退屈なんだろう。だけど、ここまで読み進めてきて、ようやく少し、自分の中で何かが見えてきた気がする。読破したら、また違う角度から何かが見えてくるかもしれない。それまでは、このマインドでいようと思う。
退屈に耐える力を持ち、その時間に意味を見出せる人間──それこそが、富を扱う資格を持っている。
たしかに、いまは何かに備えようとして空回りするだけ。何かしなきゃ、何か学ばなきゃ、何か備えなきゃ。「何か」が分からないと、人は部屋でじっとできないように、動きたくなってしまう。ただ、どうしてもその動きはマイナスなことだけを導いてしまう。パスカルの名台詞「じっとしてりゃいいのに」ってのは、まさにこのことを指していたのかもしれない。もちろん、ひねくれ野郎のパスカルは、そこまで考えて言葉を残したわけではなさそうだけれども、今に必要なのは「退屈に意味を見出す練習の時間だ」としてみよう。退屈に耐えるというのは、未来を考えず、子供の頃にゲームをしていたときのように、他人から見てみれば時間を浪費しているような時間でも、時間の浪費も重要なときはあるだろう。すべてはバランスなんだから。例えばだ、退屈に苛まれていることをひとつの病気として考えるのであれば、そりゃ無理に動けば余計病気をこじらせるというものだ。だからこそ、退屈と感じているならば部屋に閉じこもって余計なことはせず、ただひたすらに、動かなければいいと思った。万物は流転する。退屈も流転する。雨は降り続かない。問題は退屈期に突入したときの過ごし方だ。そこで子供のころを回想してみる。退屈なときには何をやっていただろうか? そう考えてみると、退屈な時間などなかった。なぜか? 少しでも時間があれば、ファミコンをしていたからだ。ああ!! 子供の頃にゲームをしていたときのように、だよ。
ここまで駄文を書き続けて、答えが出たな。ファミコン世代にはファミコンが一番だ。最高の道具ではないだろうか。退屈さを感じさせないほど、時間を浪費させてくれた唯一無二のアイテム、ファミコン。つまりは、単純なドット絵のテレビゲーム。課金する必要もなく、誰ともインターネットで繋がる必要もない、単調なエンドレスリピートの音楽を聴きながら、十字キーとボタンで画面と対峙する。ドット絵だからこそ、本を読むような空想世界を描くことができるんだ。ドラえもんでもこの最適な道具は出せまい。部屋の外に出て、やりたいことがすべて裏目に出る状況であれば、部屋の中でコツコツとファミコンをすれば、それが正義のはず。退屈という病の処方箋こそ、ファミコンにあり。なんてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。

ということで、ファミコンを取り出して、スパルタンXを引っ張り出して、プレイしてみました。面白く、退屈が有意義な時間になりました。