ホテルの朝食で食べた肉吸いが忘れらず、自分も作ってみました。キッコーマンの「白だし」と「本だし」を半々に合わせて、お湯を注いだだけ。あとはしゃぶしゃぶした牛肉を入れて、なかなかおいしい肉吸いの完成です。最高。
ラジオで聞いた、ちょっと怖い話
先日、ラジオのニュースで耳にした話です。「4Gが提供された国から、子供の出生率が低下していっている」 ―― どうやら、その2つには相関があるらしい、と。
もちろん、相関と因果はまったくの別物です。たまたま同じ時期に起きただけかもしれませんし、こじつけと言われればそれまでの話。本当かどうかも自分が分析していない以上、わかりません。
それでも、なんとなく「そうっぽいなぁ」と考えさせられてしまいました。
スマートフォンがあれば、SNSがある。SNSがあれば、わざわざ人に会わなくても、つながっている気持ちになれる。その気持ちがあるならば、人と会っている時間が相対的に減ると仮定する。人とのコミュニケーションが減っているのであれば、異性との関わり合いも減少、つまりは未婚、そして出生率の減少という流れにはなりそうです。
まあ、私も現時点では少子高齢化に貢献している身ではありますが…。
そんな矢先に、日経新聞で子どものSNS規制の記事を読みました。
SNSは「貴重な居場所」 年齢制限見送り、こども家庭庁の譲れぬ一線
これは、ちょっと書いておきたいなと思いました。
いま、何が議論されているのか
ざっと整理すると、こういう状況です。
日本では、総務省が「未成年のSNS利用は年齢確認を厳しくしよう」という報告書案をまとめ、自民党も事業者に年齢確認の徹底を求める提言を出しました。
ただし、年齢による一律の利用禁止には慎重で、教育とフィルタリングを中心にした段階的なやり方を取ろうとしています。
一方、海外はもっと踏み込んでいます。オーストラリアは2025年12月に、16歳未満のSNS利用禁止を世界で初めて法律にしました。インドネシアも2026年3月に、16歳未満の禁止を打ち出しています。
「教育で」という日本と、「禁止で」という海外。この温度差を眺めながら、私はどちらに頷くだろうと考えてみました。
「禁止」と聞くと、少し立ち止まってしまう
正直に言うと、「禁止」という言葉には、少し立ち止まってしまう自分がいます。
理由のひとつは、自分の子ども時代を思い出すからです。
私が若かった頃も、私のいた場所でもそれなりに荒れていました。暴走族が幅をきかせ、シンナーを吸っている者もいた。資金集めをする連中もいたし、なかには学校にナイフを持ってくる子だっていた。割と殺伐としていたものです。上履きに画びょうを入れられたり、普通に廊下のすれ違いざま、回し蹴りをしてくる人もいましたからね。決して褒められた時代ではありません。
何が言いたいかというと、道を踏み外す子どもは、いつの時代にもいた、ということです。スマホもSNSもなかったあの頃にも、いじめは必ずありました。5クラスで平均30人ずつの生徒たち。必ず嫌いな奴というのは一人か二人はいたものです。そう考えると、t検定でサンプル数が30を超えるとt分布表が正規分布に近づいてくるというのは、なんだか納得します。簡単に言うと、あのクラスというのが世の中の縮図だったわけです。
「SNSさえ取り上げれば、子どもは健やかになる」とは、私にはどうしても思えない自分がいます。SNSが諸悪の根源だ、と言い切るのは、たぶん少し違う。結局いじめや暴力はなくならない、と考えるのが妥当かもしれません。
でも、依存は本物
とはいえ、SNSやスマホを擁護したいわけでもありません。依存性は、間違いなく本物です。
何を隠そう、この私自身がそうです。YouTubeのショート動画なんて、気づけば延々とスクロールしてしまう。終わりが来ないように作られているのだから、勝てるわけがないのです。ラットがスイッチを押したら餌が出てくるような仕組みと同じことをさせられているのですから。
ひとつ、忘れられない出来事があります。職業訓練校でパソコンを教えていた頃のこと。Windowsには昔から、ソリティアというトランプゲームが入っていますよね。パソコンに不慣れな受講生には、あれでマウス操作の練習をしてもらうのです。
ところが、ある受講生がソリティアにすっかりハマってしまいました。授業中もやめなかったので注意をしたのですが、案の上、翌朝電話がかかってきて、こう言うのです。「午前2時までやってしまいました。今日は休みます。すみません」と。面白いでしょw
大人でも、こうなるのです。だから、子どもだけを責める気には、どうしてもなれません。むしろ問題なのは、子どもの意志の弱さではなく、「いつまでも見続けられる」ように設計された、あの仕組みのほうなのだと思います。
禁止は、たぶん徹底できない
それに、現実問題として、禁止を徹底するのは難しいでしょう。
40代の私が名前も知らないSNSが、今この瞬間にもいくつもあって、新しいものが次々とリリースされています。ひとつ塞いでも、また別の入口が開く。いたちごっこです。制度を作ったところで、子どもたちは大人の知らない抜け道を、あっという間に見つけてしまうはずです。
そして何より、SNSが青少年にとって「悪」だと言い切ることもできません。学びにつながる出会いも、励まされるつながりも、そこにはたしかにあるのですから。つまりはメリットがあり、デメリットがあるという感じです。
だったら、道具のほうを工夫できないか
禁止か放任か、の二択で考えるから苦しいのかもしれません。私はむしろ、道具のほうを工夫できないかと考えています。
たとえば、スマートフォンそのものは18歳から。けれど、それまでの子どもには、連絡とGPSだけができる、シンプルな端末を持たせる。親が居場所を確認でき、いざというとき連絡が取れれば、それで十分なはずです。
スマホが高すぎる、という問題もあります。
だったら、市販のノートとドッキングできる「下敷き」のような薄い端末、いわば安価なノート型スマートフォンのようなものがあってもいい。荒削りなアイデアですが、考える余地はあると思うのです。
それと、これはエビデンスのない、あくまで私の実感なのですが、学校でタブレットが配られるようになってから、子どもの学力はむしろ落ちているような気がしてなりません。そういえば、スウェーデンが2023年に、まさにこの問題で動いていました。子どもの読解力の低下を背景に、デジタル偏重を見直し、紙の教科書や手書きの時間を増やす方向へ舵を切ったのです。やはり人は、手で書いて覚えるほうがいい。私はそう思います。
私の勉強アイテムは、無印良品さんの「らくがき帳」に、ありったけの文字を書きましたからね。
私なりの落とし所
長々と書いてきましたが、私の結論はわりとあっさりしています。
SNSを全面的に禁止するというより、まずは「学校への持ち込み禁止」くらいで、ちょうどいいのではないか。学びの場には集中できる環境を。家に帰れば、家庭のルールのなかで付き合う。そのくらいの線引きが、いまの現実には合っている気がします。
もっとも、学校だって万能ではありません。楽しい先生もいましたが、授業が苦痛でしかない先生だっていましたからね。子どもが逃げ場を求める気持ちも、わからなくはないのです。
そういえば、冒頭で引いた記事で、こども家庭庁が SNS を子どもの「貴重な居場所」と呼んで、一律の年齢制限を見送ったのも、いまならうなずけます。家にも学校にも居場所のない子にとって、画面の向こうのつながりが救いになることは、確かにあるのですから。
結局、子どもだけを悪者にするのではなく、依存してしまう私たち大人も含めて、テクノロジーとの付き合い方を考えていくしかないのでしょう。例によって、すっきりした答えは出ません。