BAR The‑BackSpace

いらっしゃい。今夜は、画家の名前の一杯を。ベリーニです。

白桃のピュレに、イタリアの発泡ワインを静かに注ぎます。桃の淡い色が、泡と一緒にゆっくり立ちのぼる。生まれはヴェネツィアの有名なバーで、店主がこの色を見て、ルネサンスの画家ベリーニの絵を思い出した。

あの人の絵に出てくる、聖人の衣だか夕焼けだかの、あたたかい色に似ている、と。それで画家の名前をもらったカクテルです。

絵の話を、少ししましょう。……美術館、お好きですか。「好きだけど、疲れる」。ええ、それがいちばん多い答えです。今夜はその「疲れる」の話です。

美術館で疲れるのは、たぶん、全部見ようとするからです。せっかく来たんだから、入場料の元を取らなくちゃ、と。順路の通りに、一枚も飛ばさず、解説も読んで。……三十分後には、絵ではなく床を見て歩いている。あの疲れ方です。

昔、うちの常連に、絵に詳しいお客さんがいましてね。その人の美術館の歩き方が、振るっていました。「僕はね、一枚決めて、その前に十五分いるんです。あとは全部、その一枚への通り道」。

全部を三十秒ずつ見るより、一枚を十五分見るほうが、持ち帰れるものが多い、と言うんです。十五分見ていると、絵が変わってくるそうですよ。最初は構図、次に色、そのうち筆の速さが見えて、最後は、描いた人の迷いまで見えてくる、と。

これは、美術館だけの話ではないでしょう。

旅行で名所を全部回って、写真しか残らなかったこと。本を積んで、どれも数十ページで止まっていること。

学びたいことが多すぎて、結局どれも始まっていないこと。……全部、同じ疲れ方です。「せっかくだから全部」は、気持ちは満腹にして、記憶は空腹のままにする。

元を取る、という考え方を、少し疑ってみるといいんです。払ったものの元は、量では取れません。深さでしか取れない。

十皿の味見より、一皿を味わうこと。十人との名刺交換より、一人との長話。全部は、いつだって、無理なんです。無理だと認めた人から、豊かになる。

……はい、どうぞ。画家の色の一杯です。

今夜のこの店でも、同じですよ。私の与太話を全部覚えて帰る必要はありません。どれかひとつ、気に入った一枚の前に、十五分立っていってください。……ええ、今夜のあなたの一枚は、どうやらこのグラスの色のようですが。

また明日、灯りをつけておきます。