仙台出張は年に2回あったのですが、いまは新型コロナウイルスのせいでなくなってしまいました。また仙台にいけることを、そして復興のお手伝いになることを引き続きしたいです。
こんにちは! Excel講師の榊裕次郎です。
震災から10年という特集が、今月に入ってからテレビで連日報道されているので、それを観て、あのときからもう10年の歳月が経ったのか……と思い耽っております。
10年前は、まだ29歳。
今年30歳になるのか! と「三十路」というキーワードに敏感ではありましたが、いまはもう40歳に片足を突っ込んでいるので、本当に毎日を楽しく過ごさないと、あっという間に人生が終わってしまうなと改めて思いました。
幸いにも、これまで自然災害にあったことがなく、のほほんと人生を過ごしてきましたが、10年前の地震は年寄りになっても忘れることはないでしょう。
当時は職業訓練校に在籍するサラリーマン講師でした。
東京は田端にある貸しビル3階、新入社員の部下にWord講座をメイン講師として壇上に立たせ、私は教室の後ろに位置して、操作に詰まった受講生のサポートをしておりました。
14時46分、Wordのタブとルーラーの話をしていたとき、あの地震が訪れます。その後、とりあえず危機管理マニュアルに従って、受講生と一緒に近くの公園に避難しました。
20代の若い受講生の一人が、腰が抜けてしまったのか動けなくなってしまったので、他の受講生に腕を掴んでもらって避難をしました。
当時、年配の受講生から「榊先生、こういうとき一番いい方法を知っているかい?」 と言われ、なんですか? と応えると「解散! が一番なんだよ。もし、いままた大きな地震が起きて、俺たちの誰かが怪我でもしたら会社の責任になるからな」という助言を受けました。
なるほどそのとおりだと思い、社長の命令をまたずに受講生の帰宅許可を告げました。そもそも社長に電話が繋がりませんでしたし、私が会社のナンバー2でしたから権限はありました。
受講生を無傷のまま全員帰宅させます。
ようやく電話が繋がり、社長から「講座は中断、みんな帰らせて」の指示を受けたときは全員すでに帰宅していましたが、あわせて社員の帰宅命令を受け、午後4時、教室を閉めて自宅に帰ることにしました。
けれども、電車は動かない。
あのとき思ったのですが、電車が動かないから電車が動くまで居酒屋で飲もう! という思考回路の人がたくさんいて、本当に馬鹿だなと思いました。心の底から強く思いました。多分、あの手の危機管理のなさの日本人が、新型コロナウイルスを蔓延させているんじゃなかろうかとさえ思います。
父、兄、おじには連絡がついたのですが、唯一その日は母だけ連絡が取れませんでした。
午後8時になっても連絡が取れなかったので、最後の最後まで心配しましたね。結果的に携帯電話の電池切れで連絡が取れなかっただけで、よかったです。
田端から家まで、当時はスマートフォンではなく、まだガラケーを愛用していたので、GoogleMapを確認しながら帰るということはできなかったので、電車の駅をたどりながらの帰宅でした。
東京・大手町に着いたら、あとは車でよく通る道を知っているので帰ることができます。
当時、大手町の駅について休憩をしていたら、「現在津波警報が発令されております。危険ですので、二重橋方面、皇居側にいてください。このエリアにはいないでください」という東京メトロの社員のアナウンスがあったことを記憶しています。
くそったれの花粉、スーツ姿で歩きづらい革靴。あとで調べたのですが、43キロという道のりを歩いて無事に帰宅をしました。
最初に実家に到着したのは私でした。
ワイングラスとカクテルグラスが2個割れただけ、テレビも倒れておらず、あとは細かいものが床に落ちただけで、それほど大きな被害はありませんでしたが、誰も帰宅できていない家に自分が最初に入ったあの瞬間は、今でも覚えています。
「おおお!」
と、被害の少なさに声を上げましたからね。
あれから10年。
10年先なんてずっと未来のことですが、その時点に到達してしまうと前述のとおり、時間の流れの早さに圧倒します。
地震・ウイルスと日常を非日常に変える出来事は現在進行系で継続中です。次は核戦争でも起きて、寿命を全うする前に地球が崩壊するのかな? とも悲観的になったりしてしまいますが、同級生にはもう死んでいる奴がいるなか、幸いにもこうして生きています。
ひとまず、無事で今を生きていることに感謝しましょう。
そして、明日は津波に流された人、または倒壊した建物の下敷きになって亡くなった人を追悼すべく、黙祷を捧げたいと思います。